広域連携観光情報誌『motto』埼玉×長野×上越

特集 SAITAMA 「伝」~この地の歴史を語る こぼれ話―その1

2019 春 Vol.48

Vol.48の特集「伝」~この地の歴史を語る~で登場していただきました鉢形城歴史館の館長である石塚館長さんへの取材こぼれ話をご紹介します。

戦国時代の状況が残されている貴重な史跡、なぜここまで残ったのか?

この鉢形城跡が国史跡に指定されたのは昭和7年(1932)、87年も前のこと。
もちろん、埼玉県内の城館跡では初の国指定でした。
鉢形城が史料上で確認できるのは、1476年頃といわれており、関東管領山内上杉顕定の家臣長尾景春より築城されました。
現在の埼玉、東京、神奈川県川崎市、横浜市あたりが、かつて武蔵国としてひとつの大きな国でした。

この地には、在地有力豪族の藤田氏が居ましたが、戦国時代に入り、この藤田氏のところへ北条氏康の四男氏邦が養子として入り、その後この地を北条氏が治めるようになったんです。
小田原(相模国)を拠点にした北条氏にとっては、北上し、上野国(群馬)まで勢力を伸ばす上で、ここ鉢形は丁度中間地点であり、秩父への入り口でもあったので要所だったのです。そのため城主となった北条氏邦が鉢形城の拡張や城下街を整備していったようです。
この氏邦は、なかなかできる男のようで、氏康とやり取りをした数多くの文書が残されていることからも、氏康の信頼が厚かった様子がみられます。

室町時代末~戦国時代初めころ、扇谷上杉氏の家宰太田道灌は江戸城や河越城を築き、関東の要所を固め始めていました。北条氏の武蔵国進出以前に関東管領山内上杉氏に「上野(群馬)と武蔵の両国を見据えるための適地」として進言し、鉢形城へ入城させたくらい、当時の関東情勢からも鉢形城は重要拠点だったんですね。

ところで、鉢形城公園の一角に電車が通っているのですが、あれは八高線です。実は北へ大きく曲がっているんです。もともとは、鉢形城内を通過する計画だったのですが、城跡破壊の恐れがあることから、鉢形村有志が保全運動をし、史跡指定を受けることができ、路線変更されて迂回されたんです。

この結果、土塁や堀、曲輪などが戦国時代の形状を今現在にまで残すこととなった貴重な史跡になっているんです。

※家宰(かさい):家臣の中のトップの職

・・・ 今回の『こぼれ話』はここまで。
鉄道路線まで変更となる歴史的価値が埼玉に。。。スゴイですね。
さて次回では、「北条氏邦の城下町整備」についてのご紹介をさせていただきます。
ぜひ、お楽しみに♪   
(ライター:いさお)